こんにちは。占い詐欺・霊感商法返金『占いバスターズ』です。
本日は占い師けんけんTVで配信中の動画より
「瀬戸内寂聴の正体を暴露します…【実名で徹底解説】」
について解説していきたいと思います。
↓動画はこちらになります。
※観相学に関しましてはこの記事では省かせて頂きますので動画をご覧下さい。
今回は皆様から散々リクエスト頂いてました。瀬戸内寂聴さんについて話していきたいと思います。
これはズバリンこと細木数子氏の動画及び記事の第二弾的なものになります。
あの時もコメント来てたんですが、
「死人に口なし」「亡くなった人の事を言うのは~」的な考えの方はこの時点で記事を閉じて下さい。そういうコメントされても、スタッフが2、3分以内に削除しますから、時間と体力の無駄です。
ズバリンの時もそうですが、彼女の墓石を売る霊感商法の被害者だった方も今現在も多数、
この世にいてます。
あの時の動画でも話しましたが、ズバリンと法廷で争うとして、あの人の子飼いの893に脅されて、
泣き寝入りした人も僕の相談者でガチで存在します。
だから僕はどんな人間でも死んだらおしまい、どのような悪事を働いていようが、死んでチャラ、生きていた時の話が美化される、というのは間違っていると思いますし、
聖人だと言われるようなことには納得いかない人間です。
生きていようが、死んでいようが、やった事はやった事、すべてがあの世にいったら許される事は
一切なく、そういうのはしょせん、公正世界仮説ですね。
また「死んだ人の事を悪く言ってはいけない」というのはあくまで誰かがつくった綺麗ごとの勝手意見でございます。
紅林朝雄だって、力道山だって、ズバリンだって、生きていた時してきた事が実際に行った行動。
ジャイアント馬場さんも、力道山が死んだ後に「あの人は、良い部分が何一つなかった」と語っていましたが。それが真実で、真実を隠さずに伝える方が僕は大事だと考える派人間です。
別に死んだ人の生前の行いをもう言わないであげて、という意見の人がいてもいいですが、僕はそんなマインドは一ミリも持ち合わせていませんし、そういう思いには賛同しかねますから、そういう人はさっさとここで記事を閉じてくださいね。閲覧ありがとうございました。
で、やっぱりなぜこの瀬戸内寂聴氏のリクエストがこんなにも、僕の元に届くか、というと皆どこか怪しんでいるからでしょう。
ズバリンと同じくらいの数、
観相学やってくれ!
ときていますし、ズバリンとイメージも近いと感じているのでしょう。
今日は僕の知る限りの真実を語っていきますので最後までご拝見よろしくお願いします。
①瀬戸内寂聴氏って何者なの?
そもそも、瀬戸内寂聴氏っていうのはどのような人物なのでしょうか?
マカロンやInstagram質問コーナーのリクエストではほぼほぼ質問されました全員の方が
「おそらく悪い奴なんですが、いい奴のふりをしていると思います。どうか観相学で見破ってください」
という内容でした。
つまりは観相学を学んでいない一般の方からも「たぶん中身は悪い奴なんだろ?」と思われているという事ですね。
瀬戸内寂聴氏は1922年5月15日生まれで2021年、令和3年なので、おととしですね、の11月9日にお亡くなりになられた日本の小説家かつ天台宗の尼僧です。いわゆる尼さんですね。
99歳まで生きられてますから、大往生ですよね。
作家としての代表作は『夏の終り』『花に問え』『場所』など多数あるみたいですね。僕はこの方の
作品は残念ながら一作品も読んだ事はありません。
1988年以降は『源氏物語』に関連する著作が多く、新潮同人雑誌賞を皮切りに、女流文学賞、谷崎潤一郎賞、野間文芸賞などを受賞しており、大正・昭和・平成・令和と4つの時代を生きた作家さんですから、作家さんとしての功績は間違いなくすごいのは確かでしょう。
徳島県徳島市の仏壇店・瀬戸内商店を営む父:三谷豊吉・母コハルの次女で、三谷晴美として生まれました。体が弱く、本を読むのが好きな子供だったみたいです。後に父が瀬戸内いとと養子縁組したために、晴美も徳島高等女学校時代に三谷から瀬戸内姓になりました。
東京女子大学在学中の1942年に20歳でお見合いをして婚約、その後、1943年2月に結婚し、10月に夫の任地北京に渡ったようです。
1944年8月1日、女の子を出産し、1945年6月夫が召集、8月終戦と共に帰宅。
1946年、8月に一家3人で徳島に引き揚げ、夫の教え子の文学青年と不倫、夫に打ち明けました
(晴美25歳 夫34歳 相手21歳)。
結構無茶苦茶な不倫をしますね。この時代ではかなり凄いんじゃないでしょうか。
1948年に夫と3歳の長女を棄て、家を出て京都で生活します。
この時に初めて書いた小説「ピグマリオンの恋」を福田恆存氏に送っています。
1950年に正式に離婚しました。ちなみに長女とは後年、出家後に和解したという話です。
上京して本格的に小説家を目指し、かつての本名であった三谷晴美のペンネームで少女小説を投稿、『少女世界』誌に掲載され、三谷佐知子のペンネームで『ひまわり』誌の懸賞小説に
入選しました。
1956年、処女作「痛い靴」を『文学者』に発表、1957年新潮同人雑誌賞を受賞。
また、ポルノ小説であるとの批判にさらされ、批評家より「子宮作家」と
レッテルを貼られたようです。
1959年から同人誌『無名誌』に『田村俊子』の連載を開始。並行して『東京新聞』に
初の長編小説『女の海』を連載。
この時期の小田仁二郎や元夫の教え子との不倫(三角関係)の恋愛体験を描いた『夏の終り』で1963年の女流文学賞を受賞し、作家としての地位を確立したようです。
1966年、井上光晴氏と高松へ講演旅行、恋愛関係になりました。
1973年、井上氏との関係を絶つために出家。以後数多くの恋愛小説、伝記小説を書き人気作家となるが、30年間、純文学の賞、大衆文学の賞ともに受賞はなかったそうです。
この辺で次の項目、前述しました出家の話をしましょう。
②瀬戸内寂聴氏の出家
1973年に51歳で中尊寺において天台宗で得度、法名を寂聴としました。
ここで僕らの知る瀬戸内寂聴となったわけですね。
当時は、出家しても戸籍名を変えなくてもよくなっていたため、銀行の手続きなど俗事の
煩わしさを嫌い、戸籍名はそのままにし、仏事の面だけで法名を併用していたようです。
作家としては出家後も俗名を名乗り続けたのですが、1987年に住職となった時点で戸籍名も
寂聴に改め、それ以後は瀬戸内寂聴名義での執筆活動を開始しました。
1974年、比叡山で60日間の行を経て、京都嵯峨野で寂庵と名付けた家に引っ越しました。
尼僧としての活動も熱心で、週末には青空説法として、法話を行っておりました。記者会見に臨んだ時に初めて尼僧になったことを実感したといいます。
40人余りの行院生の中で尼僧は寂聴を含め5人であった。
うち2人には夫があり、髪があった。
5人の尼僧の中で霊感のないのは寂聴だけであった。という記事があったんですが、そもそもが霊感なんてクソインチキ、何の話や?って感じです。
ここの点では意外にも寂聴氏のみがガチ正直だったという事です。
得度に際し、髪はどうするのかを聞かれ、即座に「落とします」と答えました。
次に「ところで、下半身はどうする?」と聞かれ、「断ちます」と答えたところ、
「ふうん、別に断たなくてもいいんだよ」と言われたそうです。寂聴が頭を剃り、性を絶つと答えたのは、自信がなく将来に不安があったためで、その時は多分に気負っていたと後に書いています。
と出家の話はここまででいいでしょう。
③瀬戸内寂聴氏の世間での評価
そもそもが普通の尼僧、尼さんならば僕の元に
そこまでリクエストが来ないでしょう。
皆さんはなぜそんなに瀬戸内寂聴氏の事を知りたいのでしょうか?
ネット上の声を見てみるとですね、
瀬戸内寂聴さんの言っていることっておかしくないですか?
不倫してでも本気の恋をした方が良いというような事を言ってましたが、人を幸せにしろとも言っています。
一つの家庭を壊し、その子供を不幸にしてでも恋を優先するなんて人の幸せを願うような人はしませんよね?人の事などどうでもいい自分勝手な人間が不倫をすると思うのですが。
しかも瀬戸内寂聴さん自身、4歳の子供を捨ててまで男の所へ行ったのに自殺するほど苦しかったと言っていましたが本当に苦しかったのは捨てられた旦那と子供ですよね?
自分で捨てたくせに、子供と離れるのが死ぬほど苦しかったなんて悲劇のヒロイン気取りたかっただけじゃないですか。
そこまでして男との付き合いを選んでおきながら、あっさりまた次の男との不倫。
この人は今まで自分の欲の為に沢山の人を不幸にしてきたのに、それでもまだ不倫してでも本気の恋をしろなんて言っているのですが、
こんな事を声高に言う人が人気があるのか分からないのです。皆さんはどう思われますか?
というド正論を書かれておられた方がいました。その他ですと、
不快感を感じました。
確かに長い人生を歩んで来て、過ちを含め色んな経験をされたこそ解る事もあるとは思いますが…自分のような失敗はしてはいけないと言うならわかりますがね。
ただ好き勝手に生きて、長生きしただけじゃないの?と思ってしまいます。やはり、一人の母親として子供を捨ててまで大事なものがあるとは思えず、軽蔑してしまいます。
メディアに出ず、ひっそり暮らして欲しいです。
というようなコメントあり、
色々と見て回りましたが、ほとんどがこれと似たようなコメントでした。
まぁまさしく僕もそうとしか言いようがないんですよね。
やはり擁護出来るポイントが瀬戸内寂聴氏の言ってる事にはありません。
本気で恋愛をするなら不倫をしろ~的な事を仰られてたと書かれていましたが、
まぁ当たり前ですが不倫をしちゃあいけませんよ。
有名になってからは数々の綺麗ごとを仰られていますが、これはもう坊主ビジネスですよね。
瀬戸内寂聴氏以外にも結構います。
成功者にありがちパターンなんですけど、僕の周りの北新地のクラブで飲んで人にも多いですよ。
昔は散々ブラックな事をしていたのに、立派になってからはボランティア団体作ったり、本を書いたり、青少年の育成を語り出したりね、そんなん無数にいます。
マルチやっていた癖に真面目な事を主張したりね、人間とは?みたいなのを説いたりしますから、
瀬戸内寂聴氏の言ってる綺麗ごともそれと同じですよね。
④瀬戸内寂聴氏を観て~最後に
リクエストがめちゃくちゃ来ていたので、答えましたが。
観相学で観ても皆様の思っていた通りの人間だったのではないでしょうか?
たぶんこの人が非難されているのは、いわゆる「おまいう」って奴で、
誰がどの口で言うてんねん!
となっているわけですよね。
若い時にやってきた過ちを棚に上げてって事なんでしょう。ただ色々言ってるカッコつけた台詞も本心というか、そう思っているのは思っている。その「おためごかし」言ってるのも寂聴氏、
そしてそう出来なくて不倫ばっかりしていたのもこれまた同じ寂聴氏。
ダメだとは思いますが、人間のどうしようもないところが良く出ていますね。
出家して有名になって、みんなに響くような言葉を言わなかったら、特に何も叩かれなかったのかもしれませんが、
やっぱり前述した「お前が言うな」とコメントされてしまうんでしょう。
発言を観ていると、霊感が無いとか「出会いというモノ・縁というモノははいきてる時に大切にしなきゃいけない」と坊さんの割にあの世にいったらとか言わないんだな。と感じました。
自分の欲を抑えたかったり、ダメな部分を直したくて出家したかったのかもしれませんが、
自我には勝てなかった、そんな人生ではないでしょうか。
そう考えると人に墓を売りつけたり、霊感商法しまくったり、ヤクザを使って相手を脅したりと、
相当数の人間を地獄に落としたズバリンの方が大分と悪者なのは間違いないでしょうね。
という事で本日はリクエストが非常に多かった瀬戸内寂聴氏の正体について語らせていただきました。
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