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マザーテレサの正体を暴露します…【実名で徹底解説】

こんにちは。占い詐欺・霊感商法返金『占いバスターズ』です。

本日は占い師けんけんTVで配信中の動画より
マザーテレサの正体を暴露します…【実名で徹底解説】」について解説していきたいと思います。
↓動画はこちらになります。


※観相学に関しましてはこの記事では省かせて頂きますので動画をご覧下さい。

今回はズバリンこと細木数子氏、
キレたら猫を壁に叩きつけるおっさんこと江原啓之氏などと同じく正体を暴くシリーズでございます。

別に大袈裟に「闇を暴く!」という感じでもないんですが、世間の評判や噂話とは違って、ご本人の真実をきちんと知ってみよう。ただそれだけのコーナーでございます。
山本リンダさんの歌の歌詞ではありませんが、噂を信じちゃいけません。

僕の話もそのまま鵜呑みにしてはいけません。
何でもきちんと自分で調べる癖をつけましょう。

それが今後詐欺やマルチやスピに引っ掛からない最善の策でございます。

今日、話していくのはマザーテレサさんでございます。彼女の真実はどうだったのか?
気になる方は最後まで記事をご覧ください。


①マザーテレサさんにどのようなイメージを持っているか?

実は僕もこのチャンネルをやってからは深く調べましたが、その昔は元々ふらっとマザーテレサさんの事を知りませんでした。
まぁイメージ的には人助けをしている女性僧侶で、人間的にもまともな聖人みたいな想像ですかね?

あ、そうそう、細木数子氏や瀬戸内寂聴氏の動画のコメントでも来ていました「すでに死んでる人の事をどうこう」みたいな考えの人は記事をご覧にならずページを閉じてください。
その「なくなっている人の事をあれこれ言うのはよくない」というのはそれはあなたの勝手意見です。合っても無いし、間違っても無いです。
そういった考えがある事は重々承知していますから、そう主張する方はこの動画を観るのは不向きです。
僕は生きていようが死んでいようが、その人の事を色眼鏡なくフラットに話す事は悪でもないと考えている派ですから、普通に話していきます。続けます。

インターネット上でもマザーテレサさんはどんな人?という項目での説明では、マザーテレサさんは貧困や病に苦しむ人々の救済に生涯をささげ、ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサ。
人道援助の活動家として象徴的な存在でした。

1910年に生まれて、18歳の時修道院の教師として当時のイギリス領インドに渡り、貧富の差と飢えや病に苦しむインドの現実に直面して現地にとどまりました。
貧困と疫病がまんえんしている都市といわれましたコルカタ(旧カルカッタ)で学校や孤児院、さらに、死を間近にした人を介護するホスピス「死を待つ人の家」を開設。
マザーテレサさんの活動は、世界中の人々の共感を呼び、その遺志を引き継いで活動する聖職者は世界百カ国およそ4千人に上るといわれています。

というやっぱり世紀のヒーロー的な扱いですね。


②マザーテレサさんはどんな人?

ではマザーテレサさんはどういう人だったのか?表向きはなんと書かれているのか。
まずそこを把握していきましょう。

マザー・テレサさんは、カトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者です。
またカトリック教会の聖人であります。
本名はアルーマニア語でアグネサ/アンティゴナ・ゴンジャ・ボヤジ、アルバニア語でアニェゼ/アグネス・ゴンジャ・ボヤジウと言います。この辺の発音は適当カタカナ読みですからご容赦ください。

「マザー」は指導的な修道女への敬称であり、「テレサ」は彼女の敬愛したリジューのテレーズにちなんだ修道名です。
コルカタ(カルカッタ)で始まりましたテレサさんの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって全世界に広められていきました。
生前からその活動は高く評価され、1973年のテンプルトン賞、1979年のノーベル平和賞、1980年のバーラト・ラトナ賞(インドで国民に与えられる最高の賞)、1983年にエリザベス2世から優秀修道会賞など多くの賞を受けました。
1996年にはアメリカ合衆国史上5人目の名誉市民に選ばれています。
詳しく生い立ちから見ていきましょう。

マザー・テレサさんことアグネス・ゴンジャ・ボヤジュさんは1910年8月26日、コソボ州・ユスキュプ(今の北マケドニア共和国・スコピエ)に生まれました。翌27日は彼女が幼児洗礼を受けましたキリスト教徒としての誕生日でございます。
母のドラナさんはアルバニア人でしたが、父のニコさんはルーマニア人と同系の少数民族・アルーマニア人ででした。
父は地元の名士であり手広く事業を営む実業家で、アルバニア独立運動の闘士でもありましたが、1919年に45歳で急死しました。ちなみにこちらは毒殺説もあるそうです。
彼女は3人きょうだいの末っ子で、6歳年上の姉と3歳年上の兄がいました。姉や兄からは「ゴンジャ」(アルバニア語で「花のつぼみ」「小さな花」の意味で呼ばれていました。
両親はマケドニア地方に住むカトリック教徒でありましたが、アルバニア人にはイスラム教徒が多く、マケドニア地方には正教徒が多かったことを考えますと珍しい家族でした。
一家は裕福でしたが父母は信仰心にあつく、貧しい人への施しを積極的に行っていました。
アグネスさんの幼少時代についての記録はほとんどありませんが、小さいころから聡明な子供で、12歳のときには、将来インドで修道女として働きたいという望みを持っていたと言われています。 

18歳のとき、聖座の許可を得ましたアグネスさんは故郷のスコピエを離れ、アイルランドでロレト修道女会に入りました。ロレト修道女会は女子教育に力を入れている修道会でした。
アグネスさんはダブリンで基礎教育を受けますと修練女として1931年にインドのダージリンに赴きました。
初めての誓願の時に選んだ修道名がテレサでした。この名前はリジューのテレーズから取られています。

1937年に終生誓願を宣立し、以後シスター・テレサとよばれることになりました。1929年から1947年までテレサさんはカルカッタ(現在のコルカタ)の聖マリア学院で、地理と歴史を教えていました。
彼女は子どものころから地理が好きで、また、ユーモラスな彼女の授業は学院の女学生たちの間で大変人気があったといいます。1944年には校長に任命されています。上流階級の子女の教育にあたりながら、テレサさんの目にはいつもカルカッタの貧しい人々の姿が映っていました。

彼女自身の言葉によりますと1946年の9月、年に一度の黙想を行うため、ダージリンに向かう汽車に乗っていた際に「すべてを捨て、もっとも貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたといいます。彼女は修道院を離れて活動を行う許可を求めましたが、バチカンの修道会管轄庁などカトリック教会の上層部は慎重に評価を行おうとし、すぐには彼女の活動に対する認可を与えませんでした。それでもテレサさんは自分の信じる道を進もうと決意していました。
1948年、ようやく教皇ピウス12世からの修道院外居住の特別許可が得られました。テレサさんは修道院を出て、カルカッタのスラム街の中へ入っていきました。彼女はインド女性の着る質素なサリーを身にまとい、手始めに学校に行けないホームレスの子供たちを集めて街頭での無料授業を行うようになりました。
やがて彼女のもとに聖マリア学院時代の教え子たちがボランティアとして集まり始め、教会や地域の名士たちからの寄付が寄せられるようになりました。 

「神の愛の宣教者会」は、1950年10月7日にローマ教皇庁によって認可を受けて創立され、1965年2月1日には教皇庁立の修道会の認可を受けました。
テレサさんによりますと、同会の目的は「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことでありました。

テレサさんは修道会のリーダーとして「マザー」と呼ばれるようになりました。インド政府の協力でヒンズー教の廃寺院を譲り受けましたテレサさんは「死を待つ人々の家」というホスピスを開設しました。以降、ホスピスや児童養護施設を開設していきます。

活動の初期のころは、地元住民たちはホスピスに所属している者をキリスト教に改宗させようとしているという疑念を抱いていました。しかし、彼女たちはケアする相手の宗教を尊重する姿勢を貫き、亡くなった者に対してはその者の宗教で看取っていました。
たとえばヒンズー教徒にはガンジス川の水を口に含ませてやり、イスラム教徒にはクルアーンを読んで聞かせました。
ケアする相手の状態や宗派を問わないテレサたちの活動は世界から関心を持たれ、多くの援助が集まりました。
1960年代までに「神の愛の宣教者会」の活動はインド全土に及ぶようになりました。
さらに1965年以降、教皇パウロ6世の許可によりましてインド国外での活動が可能となりました。インド以外で初めて宣教女が派遣されましたのは南米ベネズエラのココロテ市でした。

以後、修道会は全世界規模で貧しい人々のために活躍するように  テレサさんの活動はカトリック教会全体に刺激を与え、男子修道会「神の愛の宣教者修道士会」(1963年)「神の愛の宣教者信徒会」などが次々に設立されていきました。
1969年、アメリカ人のマルコム・マッグリッジ氏が撮りましたドキュメンタリー映画『すばらしいことを神様のために』および同名の書籍によりまして、テレサさんの活動はアメリカのみならず全世界で知られるようになりました。
この作品の取材をする中でマッグリッジ氏はテレサさんの姿に強い感銘を受け、のちにカトリック教徒になっています。
1971年、教皇パウロ6世は、自らが制定した勲章「ヨハネ23世教皇平和賞」の最初の受章者としてテレサさんを選びました。これを皮切りに多くの賞がテレサさんに与えられることになりました。
ケネディ賞(1971年)、
アルベルト・シュバイツアー賞(1975年)、
アメリカ合衆国大統領自由勲章(1985年)、
アメリカ合衆国名誉市民(1996年)、
議会名誉黄金勲章(1997年)など、これらに加えて数多くの大学の名誉学位を受けました。
アメリカ合衆国名誉市民としては5人目(存命中はチャーチルに次いで2人目)またアメリカやその同盟国の政治家・軍人以外としては初めての授与でした。
こういった賞の中でもっとも有名なものは、もちろん1979年に受けたノーベル平和賞でしょう。
テレサさんは授賞式の際にも特別な正装はせず、普段と同じく白い木綿のサリーと革製のサンダルという粗末な身なりで出席しました。
賞金19万2,000ドルはすべてカルカッタの貧しい人々のために使われることになった上、授賞式の場においては「私のための晩餐会は不要です。その費用はどうか貧しい人々のためにお使い下さい」とも要望しました。
賞金を受け取ったとき「このお金でいくつのパンが買えますか」と言ったといいます。

インタビューの中で「世界平和のために私たちはどんなことをしたらいいですか」と尋ねられたテレサさんの答えはシンプルなものでした。
「家に帰って家族を愛してあげてください」

1982年にはテレサさんはイスラエルとパレスティナの高官にかけあって武力衝突を一時休止させ、戦火の中で身動きがとれなくなっていましたベイルートの病院の患者たちを救出しています。
1997年、テレサさんの死後すみやかに列福・列聖調査がはじめられました。通常は死後5年を経ないと始めることはできない規定ですが、テレサさんの場合は生前から聖女の誉れが高かったことと、彼女の業績を極めて高く評価していましたヨハネ・パウロ2世が前倒しを強く求めたため、例外的に5年を待たずに始められたました。マザーの列福のために報告され、後日、奇跡として認められた事例に、非カトリックのインド人女性モニカ・ベスラさんの治癒があります。

1998年、モニカさんは34歳の時、腹部の腫瘍を患い病んでいました。すぐに手術しなくてはならない危険な状態でしたが、ひどい貧血症も患っていたために手術は不可能でした。
彼女はマザー・テレサさんの死去した翌年の9月6日に、神の愛の宣教者会が経営する「死に行く人のための家」の礼拝堂に赴きました。
「礼拝堂に入りますと、マザー・テレサさんの写真が目に入り、あたかも一条の光が私に向って飛び出してくるように感じました。シスターが私のためにお祈りをしてくれて、私は眠りにつきました。
朝、目覚めると、腫瘍が消えていたのです。」とモニカさんは語っています。
この辺は怪しいですが、また後程話しましょう。

その突然の完全な治癒は医師たちを驚かせ、その後にその医師たちは自分たちの診断が間違っていなかった事を示すためのあらゆる必要な証拠を提出した。治癒のあとで、腫瘍を検査するためにした小さな外科手術の跡さえも見つからなかった。立ち会った医師は「これは私の医師としての人生で出会ったもっともすばらしい経験の一つです」と言いました。

と、まぁちょっとオカルトチックな話もありましたが、

今僕が話しました通りなら、そんなに引っ掛かるところはありませんでしたが、
どこに問題があるのでしょうか?


③マザーテレサさんの正体

正体は実はマリオに出て来るオバケのテレサでした~くらいなら可愛いんですが、現実はそんな甘いもんじゃありません。きちんと正体を暴いてる人が世界には沢山おられますので、その方達の記事を引用させて頂き、実際マザーテレサさんはどうだったのか?を語っていきましょう。

バチカンが“聖人”と認めた7人のうちの1人が、マザー・テレサさんです。聖人に認定されるまでの審査期間は没後200年近くかかることも珍しくない中、マザー・テレサさんは没後20年で異例のはやさで聖人認定されています。
没後、再び脚光を浴びておりますマザー・テレサさんですが、その業績に一部から疑いの声が上がっています。

1995年にマザー・テレサさんの慈善活動を批判する著書『The Missionary Position: Mother Teresa in Theory and Practice』から語っていきましょう。
この書籍は世界的な偉人として尊敬を集めておりますマザー・テレサさんの世に知られていない別の顔について世界で初めて本格的に伝えた内容で、出版当時は大きな反響を呼び、内容に対する非難の声が世界中から沸き起こりました。

本書はマザー・テレサさんに対する世の一般的なイメージに異を唱え、実際の彼女のパーソナリティーは実に偏狭で、慈善活動家としては大いに疑問となる黒い人脈を持ち、寄付金集めに奔走する人物として描かれています。歴史的な偉人を汚す行為であるとして本著は各方面から批判されましたが、
興味深いことにバチカン本体や、マザー・テレサ財団からの正式な異議申し立てはこれまで一切なされていません

著者のクリストファー・ヒッチェンズ氏は2011年に62歳の若さで亡くなったこともあり、マザー・テレサさんの功罪についてはあまり厳しい追求を受けることなく収束するかに思えていたのですが、意外な形で事態は2013年に動きを見せることになります。
2013年にカナダのモントリオール大学とオタワ大学の研究チームが、マザー・テレサに関する287の文書を精査して、世に伝えられている彼女の“奇跡”は科学的に解明できることを指摘し、総じて彼女はバチカンの“広告塔”であったことを示唆する論文を発表したのです。
この論文が契機となりまして、再びヒッチェンズ氏の主張が注目を集めることになりました。

ではヒッチェンズ氏が著書の中で指摘したマザー・テレサの
“グレーな部分”を紹介していきましょう。

まず1つ目は「マザー・テレサさんは総じて患者に対する医療ケアを受けさせていなかった」です。

世界100カ国で貧しい人々のために献身的に活動し517のミッションを成し遂げたマザー・テレサさんですが、重篤の患者に対しては、自宅で安らかに臨終の時を迎えることを推奨していました。
従って基本的に患者を病院に送ろうとはしなかったといわれています。
調査によりますと、マザー・テレサさんに助けを求めた病気の貧しい者の3分の2は医療ケアを希望していたのですが、施設に引き取った者の3分の1は適切な医療処置が行われないことで死亡していたということです。
訪問診察でマザー・テレサさんの施設にやってきた医師の多くは衛生環境の悪さと、痛み止めなどの
救急医薬品と食糧の備蓄の乏しさにショックを受けたといいます。
各方面から寄付を受けていた施設に決してお金がなかったわけではないのです。マザー・テレサさんの病と死に対する独特の考え方によりまして、施設の多くの患者が治療を受けることなく亡くなっていたということです。

2つ目は疑わしい人物から資金の提供を受けており、その金は慈善活動に使われていなかったという話です。
マザー・テレサさんは惜しみなく人々に祈りを捧げていましたが、話が財団のことになりますとお金に対して吝嗇家(りんしょくか)であったといわれていいます。吝嗇家というのはケチという意味です。
インドの大規模な洪水やインド史上最悪の化学工場事故・ボパール化学工場事故の被害に対しても、
数え切れない祈りを捧げて多くの修道女を現地に派遣し、被災者に聖母マリアのお守りを配ったといいますが、資金面での援助は何もしなかったといわれています。

3つ目は黒い人脈と財団の秘密の銀行口座です。慈善活動家らしからぬ“黒い人脈”も問題視されています。
ハイチの右翼独裁者ジャン・クロード・デュヴァリエ氏からレジオンドヌール勲章を授与されると共に献金を受け取っています。
財団はいくつもの秘密の銀行口座を持っているといわれ、そこにある資金は発覚を恐れてのことなのか、慈善活動に使われることはなかったといいます。

4つ目は「人工中絶反対派のジャーナリストを重用して持論を広めた」事です。
人工中絶反対派で知らていますイギリス人ジャーナリストのマルコム・マゲリッジ氏を重用したマザー・テレサさんは、自身の持論である人工中絶反対の考えを広めました。
マゲリッジ氏とコダック社の協力で映画『First photographic miracle(初めて写真に撮られた奇跡)』(1969年)を制作。
この映画がきっかけでマザー・テレサさんは世界中で知られることになり、ノーベル平和賞の受賞につながったといわれています。
ノーベル賞受賞演説でもまた人工中絶反対の立場を強固に表明し、レイプされた末に妊娠したボスニア人女性が人工中絶を求めている例を挙げて
「今日の世界で最も平和を破壊してるのは人工中絶です。人工中絶は戦争であり殺人です」
とスピーチしています。

5つ目は「マザー・テレサさんの“奇跡”は人為的に起こせる」です。
バチカンから“聖人”に認定されるためには、存命中に2つの“奇跡”を起こしたと正式に認められる必要がありました。
マザー・テレサさんが起こしたとされる最初の“奇跡”はインド人女性、モニカ・ベスラさんに対しての行為で、1998年にマザー・テレサさんは祈祷と共にお守りをベスラさんのお腹に当てたところ、腹部の腫瘍が消え、患っていた結核が治癒したといわれています。
しかしながらベスラさんの担当医はこの“奇跡”の前から投薬治療を続けており、ちょうど“奇跡”のタイミングで治癒したのだと主張しています。この件についてはバチカンの側のほうがむしろ“奇跡”にしたがっていたニュアンスも汲み取れたということです。

というような点が問題とされています。つまりマザー・テレサさんが世界中に開設した517もの『死を待つ人々の家』ホスピスは、衛生状態が悪く、医薬品も慢性的に足りず、満足な治療が施せなかったと報告されているのですが、
彼女は「何百万ドルもの多額の寄付金を受けており、金銭的に困っているわけではなかった」
という事実を突き止められています。

またマザー・テレサさんは、患者の痛みを和らげることはせず、痛みに耐えることを賛美して癒やすという、怪しげなことをしていました。
多くの病人が、彼女の元を訪れれば、医師が治療をしてくれると思っていたにもかかわらず、彼女は、イエス・キリストの受難のように、痛みに耐えることは尊いことだと繰り返し言うだけでした。

何しろ圧倒的にもらった寄付金を、使いたくなかったのでしょう。

しかし、マザー・テレサさんご自身は晩年、心臓病を患ってペースメーカーを入れる手術などを受けていました。
痛みは耐えろと主張していた当のご本人は衛生状態が良く医療設備も整った近代的なアメリカの病院で手術を受け、しかも痛みを和らげる麻酔薬を投与されながら治療を受けている事実がございます。
彼女の「痛みに耐えることは尊いことだ」という言葉は金を使いたくないだけの無理やりな主張だったのでしょう。

ジャーナリストのクリストファー・ヒッチンズ氏は
「マザー・テレサさんは、彼女名義の通帳に多額の現金を所持していた。世界中から集まる寄付金を使えば、インドで最も進んだ病院を建てることも可能だった」と話しています。

ちなみにマザーテレサさんがなくなった際の彼女の個人口座の残高には日本円で約48億円あったという話です。
必死に擁護派は「教会の金は個人が勝手に使えないような仕組みになっている」とかほざいてますが、

個人口座なんで関係ないですし、色々明るみに出ても、
まだ無理やり信じたい頭お花畑人間がいてるんだなぁと悲しくなりましたね。

この画像のように、綺麗な言葉を発しているでしょう。また

このような文章も有名でよくネットで見かけたりしますが、決してそういった文言や修道女の洋服や、両手を合わせているポーズに騙されてはいけません。

面相読み取りが不可能な人でも、彼女の微表情にはとても聖人といえない、濁った心がよく出ています。むしろその顔は修道女というよりは魔女に近いと感じます。

魔女ってアニメや漫画でしか出ませんが、最初に魔女のキャラクターをデザインした人ってよく人物読みが出来ているんじゃないかなぁと感心しますね。

ぴったり面相がマザーテレサさんと合致します。


④まとめ

瀬戸内寂聴氏もその坊主の格好にまんまと騙された人も多かったのではないでしょうか?
マザーテレサさんも同じ部類ですね。やはり皆さんが違和感を感じていた顔、面相の悪さはバッチリ
当てはまっているでしょう。

まんまと騙されていた方は、まだまだトラストリテラシーが低いので、詐欺に引っ掛かる予備軍ですから、姿かたちやメディアの情報に騙されない、ハロー効果に引っ掛からないB層を卒業しましょうね。

というわけで本日はずっと依頼が多かったマザーテレサさんの真実を話させて頂きました。

僕からするとまぁ予想通りといった感じでした。

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